江戸時代の陸上交通

昔の山陰道

江戸時代の陸上交通は、津和野から浜田に至る、昔の山陰道であると伝えられる津和野本街道(山越し本往還)があり、間道的には津和野城と下瀬山城を繫ぐ津和野本往還がありました。
しかしこれらの中世の城を繫ぐ道は、近世になると戦略的目的から外れて、いつしか廃道となったものが多く、現在は辿ることさえ困難ですが、資料にある地図を参考までに掲載します。

四季折々に美しい山中の迷路

 平家の落人伝説を伝えている畳村の山中の村落は、高地であり、吉賀川流域の交通からは全く忘れられているかのように孤立してるが、分散しながらも山々の中腹以上を横這いに、あたかも計画的な迷路のような小道でつながれ、地理的な知識なしに、一旦この山道に入ると、地形判断だけでは再び出ることは困難なほど、進退きわまる地域である。

確かに敵を持って入ってきた敗残武士の土着と、一族の強い団結を思わせるものがその山道に遺っているのは驚く外ない。これらの山道は、吉賀川沿いからいえば僅かに3か所の谷口を持つだけであるが、それでいて山中は全く蜘蛛の巣のような網状に村落を繫いでいる。現在もその戸数は昔と変わりなく、軍場(1戸)、治郎ケ岳(1戸)、空畳(3戸)、塩木谷(1戸)、赤ノ谷(1戸)、民ケ谷(2戸)の計9戸である。--と昭和39年1月に発刊された「日原町史」に記述されている、
高津川の中流域(吉賀川)は、両岸に山地が迫り、若葉の季節は多様な緑色に出会え、紅葉の時期には全山丸ごと染まる、季節感が溢れる魅惑的なところです。