枕瀬付近の統治の始まり

統治の始まり
孝徳天皇(飛鳥時代)の即位の時の大化改新によって定められた石見の国の政庁は、始め邇摩郡仁萬に、後には那賀郡下府に置かれて、朝廷から任ぜられた国司によって治められました。後に出来た鹿足郡の郡家は朝倉(現在の吉賀町)に在り、ここに郡司が居り鹿足郷の長も居ましたが、能濃郷の長は津和野に居た様です。

武家政治の始まり
飛鳥時代から奈良時代、平安時代が過ぎて、鎌倉時代になって、佐々木定綱が石見の守護に任ぜられました。
そして益田兼高が、高津川河口を中心に益田川・疋見川の流域を石見押領使として荘園を監理しましたが、吉賀・津和野の両流域は遅くまで公領(国衛領)として残され、鎌倉時代も終わりに近い弘安五年(1282年)に地頭として吉見氏が西石見に下ってきました。

吉見氏による西石見統治のはじまり
吉見氏は、清和源氏より出た源範頼の後継で、孫の為頼の時、武蔵国の吉見庄(埼玉県吉見)で興りました。
西石見に下った吉見頼行は、始め三河国(愛知県)の設楽郡を領していましたが、父の頼忠が第1次元寇の文永役(1211年)で能登国へ出陣し、軍功によって西石見を賜ったため、弘安5年(1282年)に能登国から高津に上陸し、白上を経て木部(現津和野)に入り、後に三本松城を津和野に築造して、ここを中心に勢力を振るいました。

吉見氏と下瀬氏
西石見に下った吉見頼行の次男頼右は三河国の矢矧の下瀬を領して下瀬氏と名乗っていましたが、長男の頼直が正中年中(1324年)津和野に一本松城(後の三本松城)を築城したので、その藩屏として石見に下り本城の北面に横山城(後の下瀬城)を築きました。
以降、下瀬氏と吉見氏は、共に周防・長門に退転する関ヶ原役(1600年)までの間、大内氏の家来の陶氏や益田氏と戦い、戦国時代を切り抜け、三本松城を護り通しました。

「日原町史:沖本常吉氏編纂」を参照