枕瀬と呼ばれ始めたのは?

枕瀬村の誕生
慶長5年(1600年)関ヶ原役の後、毛利輝元の所領から削られた石見に、坂﨑出羽守直盛が三万石の津和野城主に封じられましたが、日原、脇本、宿谷、柳と鹿谷、滝谷の六カ村だけは津和野領に加えられず、銀山御料地として大森銀山と同様に徳川幕府の御料地として残りました。
そして、その後徳川幕府の検地によって行政上の単位としての「村」が設定され、「枕瀬村」が生まれました。

枕瀬組として地域の中心となる
元和二年(1616年)坂﨑出羽守が千姫事件によって自害し、そのあとに亀井政矩が四万三千石で因幡(鳥取県)鹿野から津和野に転封され、銀山御料地は日原村だけを残し他は津和野藩に添地となりました。
その後、亀井氏は寛永十四年(1637年)に「丑の検地」を行い、小直、木ノ口、野口、枕瀬、須川、大倉谷、小倉谷、相模ケ原、岩倉、笹ケ峠、須川谷、横道、左鐙、畳、滝谷、の15カ村を枕瀬組とする行政上の組及び村の区分を成し、それが明治四年の廃藩置県まで続きました。
日原村については、慶応二年(1866年)幕府の第二次長州征伐で毛利藩の占領軍政下に入るまで、266年間幕府の直轄領が続きました。

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枕瀬組代官屋敷
一つの組に一人の代官が配置され、村単位では一つの村又は七~八つの村を一軒の庄屋が纏めていた模様で、枕瀬組代官の屋敷は現在の枕瀬121にあり、吉賀川の渡し場(津和野百景八十七「枕瀬の渡船場」)に近く、天領日原村を一望に見る重要な位置にあったようです。

「日原町史:沖本常吉氏編纂」を参照