船方牧場を散策して十種ヶ峰登山口へ

船方牧場1
久し振りの晴天に誘われて、船方牧場へ出向いた。
船方牧場では、凡そ20年前、益田市で農業を志すにあたって、農業活動への心構えを教えて頂きに坂本社長をお訪ねし、「一口に言って、15年は頑張らないとものにならないよ! 」とお聞きしたことを覚えている。残念ながら諸般の事情によって、3年足らずで撤退してしまった。
その時からすると、随分広大になり自然に充実していて、心が疲れたときは又訪れたいと、満たされて牧場を後にした。
駐車場でお客さんに、近くに枝垂桜の大きな古木があると教わり、神角八幡宮まで行った。
ちょうど満開の素晴らしい枝垂桜だー
神角の枝垂桜
其処は、十種ヶ峰の登山口で、中学2年生の頃のことを思い出した。
その頃までは余り積極的でなく引っ込み思案の少年だったが、2年生になった春過ぎにクラスの十種ヶ峰登山があって、頂上付近で鬼ごっこをみんなでした。
クラスにはちょっと大柄で色白の活発な女の子が居て、彼女が鬼になったとき僕は追われて直ぐ捕まった。その時の肩を叩かれた彼女の手の感触が半世紀たっても何となく覚えているくらい感動的なものだった。
其の頃から僕の声は大きくなり動きも活発になり、成績も上向いて、地元の高等学校へ合格するか否か心配していたのに、結果は20番ぐらいの良い成績で合格した??、今思えは、これが初恋だったのだろう?
しかし、彼女とはその後話をしたこともなく、ただ遠くで眩しそうに眺めていただけだった。
十種ヶ峰登山口案内図
そんなことを、登山口の案内板を見ながら思い出した。

船方牧場散策動画
船方牧場散策動画

他人事とは思えない笹子トンネル事故

笹子トンネルは信州へ車で旅行するとき、必ず通る道だった。
今は二人の子供の母親である娘と3人で何度も通った思い出のトンネルだ。
「行きはよいよい帰りが怖い」の例え通り、まだクーラーがない出始めのシビックで、いつも渋滞に巻き込まれ、1時間以上かかって通り抜けるトンネルとして思い出が深く、一度は迂回するため旧道の山道を走って山越えし、釣り堀がある所で一休みしたことを思い出す。
あの渋滞を考えると被害が少なかったものの、災難にあった方々に心から冥福をお祈りしたい。
笹子トンネルと同じ換気様式のトンネルとして、山陽道の武田山トンネルの名前が挙がっている、このトンネルでは掘削現場に掘削機を納入して、苦労したことを思い出す。
トンネルの上に民家があるため、岩盤強度が2,000Kg/cmを越える花崗岩を機械で掘削し、思わぬ故障が発生して、その度にお断りと対策の打合せで訪問し、流川でよく飲んだものだ。
今回の選挙で、公共工事予算を景気対策とすることが問題となっているが、首都高速道路他、数十年も前に建設したインフラが、今も補修処置のまま至る所で使用されている。
この機会に、これらの総点検とインフラの再整備を真剣に考えては如何だろう?

追:その後の報道によれば、武田山トンネルはジェットファン方式で、笹子トンネルとは異なるそうだ。一安心!




イチローさんヤンキースへ

イチローさんは、野球選手の中で尊敬する、最も忘れられない選手だ。
彼がプロ野球に入団して3年ぐらい経ったころだろうか?大阪で全国バッティング場協議会の会合に招待選手として出席され、サイン会や会食を共にしたことがある。
会食の席で、「子供達がイチローさんのバッティングホームを習いたいと言っているが、どのようにしたら良いでしょう?」と、直接質問をしたところ「未だ身体が出来ていない子供には奨められません」と控えめな回答を頂いたことと、握手した時の彼の手の厚さは、今でも昨日のように覚えている。
シアローのマリナーズに入団されたときも、私がアメリカへ降り立った最初の地域で、何と無く嬉しかった。もちろん私が行ったのは昭和40年前半のころで、まだ野球のことには興味がなく知らなかったが・・・
その後、世界的に素晴らしい記録を打ちたて、私が「最も日本人として誇れる人」と思っているように、今は大きく成長をされている。
最近、ちょっと以前のようにはないようだが、ヤンキースでもう一花咲かせて欲しい。
そして、速めに日本に帰って、日本の人々に、「日本人魂」の持ち方を教えて欲しい。
怪我をしないように励んでください、ずっと、ずっと応援しています。

写真は協議会で一緒に写ったものがあるが、残念ながらブログでは発表できない。サインは2枚頂いたが、当時の会社で誰かが持ち去ったようだ。

スナック「多恋人」

先日、多恋人の「ひでちゃん」から電話があった。
「色々考えたが、6月一杯で店を閉めることにした」・・・
10年前ごろ、益田市で地域活性化の真似をしていた時、本当にお世話になった。
知らない土地の色々な事情を教えてもらったり、色々愚痴を聞いてもらったり、益田駅前近辺で飲んだ時は必ず立寄る「ひでちゃん」のお店だった。
また、綺麗なママがいた「セガン」からも「5月末で閉店する」との便りがあった。何と返事したらよいか迷っている内に、5月が過ぎてしまい、今度は「多恋人」だ・・・
横浜へ引上げてから、もう6年・・・、益田の夜も変っていくのだろうナァ~



あの日/昭和20年の記録ーを観て

生きているのは僕だけ8月14日、しなければならない宿題が溜まっているが、どうしても机の前に座れない、「お盆の一日の休暇」と諦めて、テレビの前に寝っ転んだ。

偶々、NHKテレビで「あの日/昭和20年の記録」を放映していた。それは、終戦日前の日から日を追って後の日の新聞記事を色々な方が見て、その日のことを思い出して語るシーンと、現存するこれまた色々な人、例えば徳川無声、山田風太郎、などなどの書き残した日記を披露していた。

僕は、終戦の年は7歳で国民学校1年生だった。島根県の片田舎(津和野)に生まれたので、疎開の経験も、怖い思いをした経験もないが、8月6日の広島への原爆投下の時の音を聞いたことと、天皇陛下の終戦の放送を聞いている人々を見たことは憶えている。

原爆の音は「どろ~ん」という鈍い音で東の方向にある青野山の方から聞こえた。広島の方向とは少し違い多分反射音だったのだろうと思う。

玉音放送は、一緒に暮らしていた叔母さんが持っていたラジオの前に近所の人達(女の人ばかり)が正座して泣いていた光景を思い出す。

今日のテレビでは、都会で暮らしていた人々、海外で暮らしていた人々、みなさん大変な苦労をされたことを改めて実感した。

戦争をしてはならない。勇気をもって避けねばならない。一部の人間のエゴのために一般の人々がどれだけ迷惑を被り不幸になるか、これは戦争以外にも最近頻繁に感じるようになったことだが・・・