この文章は私が大阪支店に勤務していた時に書き始めたものである・・・
私は時々、なぜこの会社に入社したのかな?と思うことがある。
その都度入社以来の出来事が断片的に思い出され、当時嬉しかったことも、苦しかったことも一様に懐かしい。
役割をどの程度果たせたかは別として、本人は仕事一辺倒であったように思う。
私がこの会社とであったのは、昭和35年の春、マージャン・パチンコと映画に現を抜かしていたときである。
来年はたぶん卒業できるであろう、みんなに倣って自分も就職先を探さねば と就職担当の教授の扉をたたいた。
「会社は小さいが、三井鉱山から独立しだちで資本はしっかりしており将来発展の可能性は大である。行く気があれば推薦しよう」
と言われてはじめて会社の名前を知った。
大学進学で機械科を選択したときから、機械メーカーへ就職し、造る仕事をしたいと考えていたから、資本のバックは大きいし、6月から月々1万円の奨学金が出るそうだし、トライしてみようかな と漠然とした気持ちで父に相談をした。
父は「三井系なら安心だろう、自分で決めろ」と なんともそっけない返事であった。
実はこの言葉が私にとって重大なものの一つとなった。と言うのも、入社して2年後に私生活の乱れを自分で立て直せず、故郷に帰り「会社を辞めたい」と父に相談したところ、父から「自分で決めたんだろう、僅かな期間で何をいうか」と諫められた。
そう云えば学生時代、キセルをして山口駅で捕まり、貨物列車を引っ張ってきた父と共に駅長室で説教されたことがある。
その時は終わってから「俺が30年も勤めてきた職場を一瞬にして汚してしまう」と一言怒られたが、その後父からこの事について全くいわれたことがない。
母にばれたのも僕自身が打ち明けたからで、その時も父は何も言わなかった。
ずっと後になってからであるが、家庭で兄夫婦とチョットごたごたがあったらしく、帰省して池の辺で出会ったとき「何かの時はお前の所へ行くからな」と小声でひとこと言ったこともある。
事件後信頼を失ったわけでは無さそうでチョット安心した事を思い出す。
父は言葉が少なく愛情表現などは全くなかったが、僕はそんな父を尊敬していた。
会社を辞めたいということが母に伝わり、母は気にして見合いの段取りを進め、幸いに今の妻と出会う事が出来て素晴らしい娘も授かり、お陰でこの年まで頑張って来れた。
話が先にずれてしまったが、父のそっけない言葉を受けて、面接を受けることにした。
第一回の面接は広島市役所の前辺りに2階か3階建ての古ぼけた「三井鉱山」という看板が掛かった建物へ行き一階の応接室で面接を受けた。
その応接室は小さく、テーブルとソファーの間が狭っかたので足をすらせるようにして座ったら、第一声で「足が悪いのか」と訊ねられた。ガリ股ではあるがそれを指摘されたのではなかろうと思い「いいえ」と答えた。この会社の第一印象として残っているのはそれだけだ。その後第二次面接で大牟田に降り立ったとき、異様な雰囲気と光景に出会った。
・・帰るならこの時、違った人生が送れたかも・・
広島市は戦後復興で街が広く白く明るい感じ、どぎつい幟も大学周辺ぐらいで、怖いものと言えばチンピラぐらいであった。それに引き換え、黒くて暗い感じの中に幟が立ち並び、街全体が異様な怖さと重圧感を与えた。今思えばこれらの感じは、光景とか街の雰囲気だけでなく就職することへの恐怖感であったかもしれない。
昭和36年4月無事入社して本店実習を終え希望を抱いて大牟田入りし、今はなくなったこの地では有名な「松原寮」に入寮した。
その最初の夕食の歓迎会で聞いた言葉が「自分達は出て行こうとしているのに、君達は何をしに来たのか」・・・この言葉は胸にグサッと刺さって、その夜は前後不覚になるまで酒を飲み、朝起きたら廊下のガラスが何枚か粉々になっていた。
これ以来、良きに付け悪しきに付け、アルコールと無二の親友となってしまった。その後結婚するまでの間の行状たるや思い出せば今でも冷や汗が出る。
よく周囲の人々が生かして置いてくれたものだと・・・。