今朝の「梅ちゃん先生」は、梅ちゃんが医大受験へ奮起する件であった。
ふっと、大学受験の頃を思い出した。
未だ、近所では大学へ行くなど考えても居ない昭和31年ごろ、島根県立津和野高等学校の3年生になって、C組にクラス替えされ、友達が挙って受験勉強するようになった。
C組というのは、受験を目指す生徒20数名が選ばれたクラスで、親しい友達が受験に丸をしたので、自分も何と無く丸をして、そのクラスになった。
暫くして、クラスの中は大学受験のムードが一杯に溢れ出し、授業も変則授業で、受験科目にない科目は自習していて良いようにまでなった。
高校卒業して親父に習って、国鉄職員に成りたいと思っていたから、特に希望する学校もなしに過ごしていたが、模擬試験の成績が発表されるようになった頃から、「4当5落」の意識が高まって、夏休み前ぐらいから本気になって、毎晩遅くまでアスピリンを飲みながら頑張った。
お陰で、家族から大学受験を許されて、担任の先生の出身校である広島大学を第1志望、第2志望は九州工業大学を目指すことにした。
先生からは「教育者になれ」と奨められたが、模型作りの好きな自分は「機械科」を目指した。
後で聞いた話だが、遅くまで勉強する姿を近所の人たちが見守ってくれてたようだ、一度真夜中に大風が吹いて、数百メートル先の大木が倒れ大きな音がしたとき、隣の奥さんが「怖かったね」と窓越しに声を掛けて下さったのを憶えている。
合格発表の日は、国鉄の入社試験の日で、玄関を出ようとした時に電報が届いた。
受験結果は「サクセス」・・・親父から「何とかするから大学へ行け」・・・国鉄の入試には行かなかった。
九州工大は親戚の小父さんから、「両方通ったら??後で悩むことになるから、最初のものを受け入れた方が良い」とアドバイスを受け、断念した。
大学受験で得たことは、
①努力すれば自分でもある程度はできる
②あの時、あれだけ頑張れたのだから・・・という自信をもらった
・・・お陰で今でも未知なものに挑戦し続けている・・・
74歳から始める「Rubyプログラミング」/島根出身だから
写真は、今は亡き2人の友人と受験前に、高校の隣の公園で・・